知と無知の境界線

哲学

壮大なタイトルですが、内容は薄っぺらです。
この手の話は古来から議論され続けていると思いますが、
私は怠惰なので文献は何も調べていません。
また、哲学の専門家でもありません。
暇な時間にぼーっと考えていた内容を書き起こしたものです。

知は限定的

Aさんは学校で「木」という漢字を習いました。
この場合、Aさんは「木」という漢字を「知っている」と言えるのでしょうか?

読み方や書き方、漢字の意味に関しては「知っている」と言えます。
しかし、誰がその漢字を最初に使い始めたのかは「知らない」でしょう。
つまり、「木」という漢字の一つの側面についてしか知らないのです。

もっとも、普段の会話でこんなことを真面目に考察するのはばかげています。
「YouTubeって知ってる?」と聞かれたら、YouTubeというサイトを見たことがあるかどうかを
聞かれているんだろうな、と推測するのは当然です。
YouTubeのサービス開始日を聞かれているのか?と考える人はいないでしょう。

知識と経験

あなたは空腹状態です。キッチンの冷蔵庫には生肉が保管されています。どうしますか?

多分、ほとんどの人は「生肉を焼いて食べます。」と答えることでしょう。
そんなの当たり前だろ、と言われてしまうかもしれませんね。

それが当たり前だと感じるのは何故でしょうか。
ある人は「生肉を食べるとおなかを壊すと教わったから」と答えるかもしれません。
または、「実際に生肉を食べておなかを壊したから」と答えるワイルドな人もいるかもしれません。

前者の答えは、他人の経験を伝え聞いたもの、つまり知識に基づいています。
一方、後者の答えは自分の経験に基づく回答です。

私たち人間は知識や経験の共有によって学習する生物です。
実際に自分で生肉を食べた経験が無くとも、調理して食べるものだということを知っています。

無知と忘却

「生肉を食べるとおなかを壊す」ということを忘れたとします。
そして生肉を食べておなかを壊し、調理してから食べるものだった、と思い出したとします。
知と無知に分類するとしたら、忘れている状態は無知であると言えます。

まとめ

・我々はこの世界について最初は何も知らない状態である
・我々は知識や経験を所有することで「無知」な対象の一部分を「知る」ことができる
・知識や経験を忘れると、再び「無知」へと戻る

古代ギリシアの有名な哲学者ソクラテスは、無知の知を提唱しています。
私は無知なのでその真意は分かりかねますが、
無知であることを自覚するというのは、物事を知っていく上で重要なのでしょう。
物事を理解したと思い込んでいるが、実際には理解できていなかった、ということが無いように
日ごろから当たり前のことに対しても疑問を持つ姿勢を忘れないようにしたいですね。

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